★ 佐賀線がなくなる日 ★



生まれた頃から線路脇で育った私にとって,
毎日決まった時間に列車が通ることは生活の一部だった。

6時半頃,上り列車の振動で起床し,さらに7時半に次の上りが通ると
「ほらもうディーゼルの行ったけん学校さ行け」と,せかされながら登校した。
夜になり,20時の下りが通ると,明日の学校の準備や寝る準備をしたものだった。
規則正しい生活を維持する上で,佐賀線は良いペースメーカーであった。

そんな当たり前だった存在が消えてしまうのは,気持ちの中では,
まるで自分の生活がひっくり返るのではないかとも思えるほどの大事件であった。
消え去るものへの不安,寂しさ,そして思い出・・・
複雑な思いを抱いていたことを思い出す。

もうかれこれ15年以上の月日が経つが,あの日はまだ記憶の片隅に残っている。
その中にはもしかしたら記憶違いがあるかもしれないが。
昭和62年3月27日。・・・私はまだ中学生。


☆  ☆  ☆  ☆  ☆


この日は,朝から興奮気味に始まった。
午前中に佐賀駅でセレモニーがあるというので,いそいそとチャリで佐賀駅に出かける。

セレモニーの内容は,良く覚えていない。

駅のコンコースでは「サヨナラ佐賀線」と書かれたカラフルな色紙が1,000円で販売されていて,
もちろん購入するが,手持ちの現金がほとんど尽きてしまう。
色紙はいつの間にか紛失した。

ホームでは,セレモニーにあわせて,臨時特別列車の出発式が行われ,
万国旗やモールで装飾された4両編成のディーゼルカーが
2番線(当時)から紫煙とエンジンの唸りをあげて出発していく。

満員の乗客が,窓からたくさんのハンカチを振っている。

そして昼ごろ,一旦家に帰る。


☆  ☆  ☆  ☆  ☆


日が暮れて,最終列車に乗るために,家を出る。
帰宅が深夜に及ぶはずなので,母ちゃんも同伴。
家の脇を,ちょうど20時の下り列車が通り過ぎていく。
筑後川可動橋をイラストにした「さようなら佐賀線」の丸いヘッドマークをつけ,
普段2両のディーゼルカーも倍の4両編成だった。
これが結局最後まで走っていた編成となった。

佐賀駅から,瀬高駅まで佐賀線に乗っているはずなのだが,
そこはなぜか記憶が抜け落ちている。
確か,臨時列車が出ていて,それで瀬高駅に向かった・・・ような気がする。


☆  ☆  ☆  ☆  ☆


瀬高駅に下り定期最終列車が到着した。家を出るときに見た車両と同じだ。
佐賀線内を一往復してきたのだ。
これまでなら,このまま瀬高で夜を明かし明日の始発列車になるのだが,
明日からはもう走らないので,折り返し佐賀へ回送しなければならない。
その回送が客扱いされて,本当の佐賀線最終列車になったのである。

瀬高駅は,その最終列車に乗ろうとする客の行列で,すごいことになっていた。
瀬高駅は駅舎が狭いので,その横の空いていたスペースを臨時改札とし,
その外側に長蛇の列ができていた。

改札が始まると,客が殺到し,もう収拾がつかなくなっていた。
私はなんとか改札を通り,「最終列車乗車記念証明書」を手に入れ,
列車に乗り込むことができた。
確か800人くらい乗れるところに,それよりもずっと多い圧倒的な数の客が殺到したようであった。


☆  ☆  ☆  ☆  ☆


列車は,まるで運動会の会場のように万国旗で装飾されていた。
最終列車は大幅に遅延し,瀬高駅を出発したのはもう日付が変わる少し前だった。

ホームでは「蛍の光」のメロディーがいかにも哀愁たっぷりに流れ,
4両編成のディーゼルカーはゆっくりと瀬高駅をあとにした。

確か百町駅だったかで0時を回ってしまい,誰かが
「日付が変わって佐賀線は廃止になったから,この列車は幽霊列車だな」
と言った。言い得て妙だった。

また,車内の立ち話に聞き耳を立てると,どうやら積み残しの客がかなり出たらしく,
急遽振り替えのバスを手配することになったらしい。
さらに,人によっては整理券のような小さい紙切れを持っている。
どうやら「最終列車乗車記念証明書」が足らなくなり,
これを国鉄に郵送すると増刷された証明書を送ってくれるらしかった。

やがて筑後柳河駅に到着。構内には多くの保線作業員の人が待っていた。
最終列車出発後,佐賀線の「廃線作業」をする人たちであった。
出発する際,お互いにみんな手を振りあった。

駅のそばにあった手動の踏み切りでは,遮断機のハンドルを最後とばかりに
力いっぱいにグルグル回す詰所のおっちゃんが印象的だった。


☆  ☆  ☆  ☆  ☆


福岡県側最後の駅,筑後若津を出発すると,すぐに筑後川可動橋に差し掛かる。

その途端,たくさんの汽笛が聞こえてきた。
佐賀線と,筑後川を分かち合ってきた漁船・船舶からの
粋な「さよなら」の挨拶だった。
ぼぉー,ぼぉーと,列車が川を渡りきるまで,汽笛が止むことはなかった。

川を渡りきると,そばのマンションのベランダから,列車に向かって手を振る住人たちがいた。

佐賀県内も各駅に丹念に停まり,家のそばも通過した。
車窓から見る家の周囲の風景も見納めかと思うと,寂しかった。

やがて佐賀線内最後の駅,東佐賀駅を出発し,車掌のアナウンスがはいる。
「佐賀線は,この列車を持ちまして,営業を終了いたします。
長い間ご利用いただき,誠にありがとうございました・・・」

そして深夜も1時に差し掛かろうとする頃,佐賀駅2番線(当時)に静かに到着した。
しばらくホームに佇んでいたい気分だったが,
オヤジが車で迎えに来てくれていた。最終列車の音を聞いてすぐに家を出たらしい。

帰り,佐賀線の踏み切りに差し掛かると,いつものようにオヤジが一旦停止した。
そして,ふと思いついたように,苦笑しながら言った。
「そうか,もう列車は2度と来ないから停まる必要は無いんだよな。」


☆  ☆  ☆  ☆  ☆


翌日の新聞の地域面は,佐賀線が完全にジャックしていた。
社会面でも「郷愁乗せて さよなら列車」の見出しで,
筑後川を渡るディーゼルカーの写真が載っていた。

近所の踏み切りに行ってみた。
すでに遮断機が撤去され,そして線路をまたいで杭が打ち込まれ,柵が出来ていた。
傍に,「踏切廃止」と書かれた真新しい看板が立っていた。
春の薄陽のなか,まるで一夜城を見ているかのようにしばらくボーっと佇んでいた。
やがて一台の車が接近し,やはり一旦停止してから廃止された踏み切りをまたいで行った。


☆  ☆  ☆  ☆  ☆


たとえ利用者が少なくとも,本数が少なくとも,
鉄道は地域に,人々に,何らかの影響を与える。

私の旅行好きも,幼少期からの佐賀線に対する「わくわく」が原点である。

鈍く光るレールは,もう来ることのない列車を,ずっと待っていた。


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